芝居で出合った 演出家、俳優の 現場のイイ話。私の本箱、イメージを言葉にする とっておきの方法 。 エッセイ、イラスト、本のコレクションの紹介、その他 私のお気に入り あれこれ 

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そのほか

ありゃ後光!?

茶をすすりながら電話してる 坊さん

7㎝くらいの、ふつーのマスコットなんです。
でも朝日を浴びたら、こんなになっちゃって、びっくり。


河崎早春のブログにようこそ!

カテゴリーごとに、全く違うことをやろうと、考えています。

面白そうなのを拾い読みして、

気に入ったらどうぞ、そのカテゴリーの前の方も みてください。

前の話の続き になってる エッセイもあります。


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そのほか

嵐子さん語録 6

   長岡での嵐子さん

引退して長岡にいらっしゃった藤沢嵐子さん。どうしていらっしゃるかと、たまたま新潟に仕事で行った時に、駅から電話をしてみました。
「あら、あなた近くに居るのぉ。それなら今からいらっしゃいよ」
「でも、遅いですから今回はお声だけで、また改めて…」
「そうォ?遅ければ泊まっていってもいいのよ。また訪ねていらっしゃいね」
ということで嵐子さんの言葉にあまえて、
次は仕事の帰りに、ご自宅におじゃましたのです。
女の方の部屋には珍しく、飾る物が何もなく実にさっぱりとしていて、これも嵐子さんらしいなと思いました。質素な部屋には、読みかけの本が並んでいます。
原書を手に取って
「最近は、南米の小説ばっかり読んでるの。独特の世界があって、あなた、面白いのよ。」
とはいっても、南米の文学といえばガルシア•マルケスの「百年の孤独」ぐらいしか思いつかない私でした。
「引退しちゃってからは、不思議なくらいタンゴは聴かなくなったわ。クラシックは聴いてるけど。」
やめるとなると、本当に潔いというか、キッパリと全てを手放してしまうのが嵐子さん流。
「昔の懐かしいところを訪ねたいとか、そういうことも思ったことがないの。きっと私って、そういう感覚なんかが欠如しているのよ。」
そして、友人に連れて行ってもらった蛍の乱舞する川に行ったことを、夢中になって話してくださいました。誰にも知られていないその場所は、それこそ信じられない程の蛍が飛び交っていて、思い出しても現実の景色とは思えないほどだったことなど。それがどこだったのか忘れてしまいましたが、私もその幻想的な風景の中に入り込んでしまい、すっかり話に引き込まれて聴いていました。
 嵐子さんの話は、その卓越した歌の表現力と同じように、人を魅了します。決して言葉は飾らないけれど、目を輝かせて語る話を聞いていると、その場に居るような気にさせられます。
 舞台ではあまり喋らない嵐子さんですが、好きなことの話になると、いつも堰を切ったように話が止まらなくなりました。
 
 東京を離れるとき、狸穴のマンションで
「何故、長岡にいらっしゃるのですか?ご親戚でもいらっしゃるのですか?」
と伺ったら
「たまたま長岡に行くことがあって、あ、ここなら住んでもいいな、と思ったのよ。」
とのこと。本当に、たったそれだけで、縁もゆかりもない土地に単身で暮らすと言う思い切りの良さは、一体どこから来るのでしょう。
もしかしたら、東京のマンションも、盛り場も、友人も、全てに過去の思い出がしみ込んでいて、それと決別して心機一転と思われたのでしょうか。
 とは言っても、機関銃のように次から次へと話をされる嵐子さんは、決してそれは私へのサービス精神だけではなくて、どこか寂しさもあったように感じました。

「あら、もう帰っちゃうの?またゆっくりいらっしゃい。
いいお店もあるんだから一緒に行きましょうよ」
その後、もういちどお訪ねして、近所のお寿司屋さんでごちそうになり…私が長岡で嵐子さんにお目にかかったのは、その後は一度だけでした。
 長岡にいらしてからは、あまり人に会いたがらなかったということを、あとになって聞きましたが、考えてみれば私は、タンゴの世界の人間というよりは、お客様との間の橋渡し役、そんな立場だったからこそ、気楽にお会いいただけたのかもしれません。
 

そのほか

嵐子さん語録 5

    歌詞のこと


初めて藤沢嵐子さんの司会をしたのは、嵐子さんかタンゴ界から10年ほど退いていらして、その後に活動を再開された頃でした。ですから、私は若い頃の嵐子さんを存じ上げていません。
昔は美しい高音だったと伺っていますが、初めて聴いた嵐子さんの歌は、伸びやかな中低音の深みのあるお声でした。若い頃の歌声を録音したものを聞く機会もありましたが、私は舞台にカムバックされた後の、人生経験を経たお声の方がもっと好きです。
ステージでは、殆どスペイン語で歌われるため、私が歌詞をご紹介していました。
翻訳された日本語の詩を読むより、嵐子さんから直接、詩の意味を伺うのは素敵な仕事でした。

「あのね、修道院の入り口に一台のバンドネオンがころがっていたの。蛇腹はボロボロで穴だらけだし、鍵盤は抜け落ちてるし、塗りは剥げ落ちてるし。まるで捨て子みたいに、置き去りになっていた。
俺もこいつと同じように、人生から捨てられたんだ。そう思ったらたまらなくなってねぇ、そおっと、そう、こうやって、赤ん坊を抱きかかえるように、大切に自分の部屋に持ち帰ったの。社会から捨てられた、まるで自分自身のような気がしたねのね。
そして、凍えた胸で赤ん坊をあやすように そっと弾いてみた。俺もまた恋人に捨てられて、歌えなくなって、貧しい部屋にひとりぼっち。そんな俺を慰めようと、お前も声を出そうとするが、聞こえてきたのは、穴の空いた蛇腹からヒューヒューと哀しげに、ただ空気が漏れる音だけ。しわがれた痛ましい音だけだったの。」

そんな風な感じで、身振り手振りを加えながら、バンドネオン•アラバレロ(場末のバンドネオン)
の歌詞を語ってくださいました。

嵐子さんの歌詞の説明は、情景が目の前に見えてきて、ある時は酒場のカウンターに腰掛けてベロンベロンに酔っ払った男になり、また、どんどん身を持ち崩して行く女になり…。
嵐子さんの話をそのまま舞台でお客様にお聞かせしたかったほどです。
まさに、ドラマの一コマでした。
歌の前の歌詞紹介…それは、私が舞台に登場して、私の言葉で歌詞を説明する時もあれば、ギターの前奏をバックに詩を朗読する声だけ流れ、そのまま歌に入って行く時もありました。
詩の朗読の場合、アナウンサーのように平板に読んでも、また勝手に感情をいれすぎても、その後の歌のイメージを壊してしまいます。
あの、嵐子さんが説明してくださった口調が、私の頭からは 離れませんでした。そこで、もしも嵐子さんだったらどう話すかしら?そう思いながら、嵐子さんの口調を真似るのではなく、嵐子さん自身の代わりに私が語ろう…そう思って、朗読したり語ったりすることにしました。
いつかまた、あの時のようにタンゴの登場人物になって、その世界を語って見たいと思う時があります。もっともっと貪欲に、あれもこれもとおねだりして、嵐子さんに沢山の歌詞を語っていただけば良かった。…そう思っても時すでに遅く…もう教えていただくことができなくなってしまったのが、何とも心残りです。

そのほか

嵐子さん語録 4

嵐子さんとの出逢い

(2013年に亡くなった藤沢嵐子さんを偲んで
司会者としての立場から、思い出を綴ってみました)

 一世を風靡したタンゴの女王、藤沢嵐子さんが8月22日に老衰でなくなられたことを知りました。
 嵐子さんのリサイタルの司会をしたのが、はじめての出逢い。私がまだ20代の頃でした。
そのころは、ご主人の早川真平さんもご健在で、バンドマスターとして活躍されていました。
それまでも、アルゼンチンのミュージシャンの司会をやっていましたが、初めて間近で嵐子さんの歌を聴いて、日本にこんな深みのある歌を歌う方がいらっしゃるのかと、ゾクッとして、司会の仕事も忘れて聴き入ってしまいました。
 それがご縁で、藤沢さんのコンサート、リサイタルには、いつも呼んでいただいて、司会のお手伝いをすることになりました。それから引退されるまで、日本全国、ご一緒にまわったのは、楽しい思い出です。
 司会者というのは、役得と言うか、昔話から、音楽にまつわる思い出、ご夫婦のこと、旅のこと…根掘り葉掘り伺って、話のタネにいたします。そんなわけで、ご自宅に押しかけたり、移動の電車の中でも嵐子さんのお隣に座って、あれこれとお話を聞く事ができました。 
 嵐子さんは、さっぱりとした気性の方で、昔の自分の写真を眺めたり、録音した歌声等を聞くと言うことが嫌い。
「歌ったその瞬間から、もう私の物ではなくなるの。過去には興味がないわ」
「私は、コンサートに向けて ひとりで練習している、その過程が何より好きなの」
などとおっしゃっていて、いかにも嵐子さんらしいなあと思いました。
 一番印象的だったのは、ご主人の早川さんが亡くなられて間もないころ、狸穴にあったマンションにお訪ねした時のことです。部屋の中に、早川さんの思い出の品や写真等が全く飾られていないので、そのことを伺ったら
「早川はね、物や写真の中にはいないのよ。」
そういって大きな目を私に向けて
「早川は、ここに居るの」
と、人差し指で自分の胸をトントンと叩きました。あの時の嵐子さんの目は、今も忘れられません。
今頃は天国で、やっと何十年ぶりかで、夫婦水入らずの時を過ごしていらっしゃることでしょう。

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そのほか

嵐子さん語録 3

    マイクを向けた嵐子さん
「あなた、舞台で喋りかけちゃダメヨ」
コンサートの前に、ジロリと私を睨んで、必ず嵐子さんは こう言うのです。
「私は、歌うだけなんだから。おしゃべりは、あなた。私が喋りたくないからあなたにお願いしてるのよっ。」
とはいうものの、舞台で聞く嵐子さんの言葉は、たとえ ひと言ふた言であっても、なんとも魅力に溢れています。その生の声、表情が見たくて、ついついマイクを向けてしまうのです。
 嵐子さんは、いつどんな時でも言葉を飾らない。それは嵐子さんの生き方と同じです。だから、本音をぽろっと喋る。でも、さすが長年舞台をやってこられただけに、一見愛想のないような喋り口調の中に、お客様を惹きつけてしまう何かがあります。
 (そういえば、テレビのインタビュー番組でも、嵐子さんの話はとても魅力的だったのを覚えています。)
 ほんのひと言でも、嵐子さんらしい台詞が聴けると、お客様は満足し、とたんに客席の雰囲気が変わります。嵐子さんも それがわかっているからこそ、出番直前の最後には
「しょうがないわねえ、じゃあ、ちょっとだけよ。」
といって結局はいつも折れてくださったのでしょう。
そして、舞台でマイクを向けようとすると
ちょっと鼻にシワを寄せて(あっ、来ちゃったわよ)というイタズラっぽい目で、構えるのです。

 今になって、嵐子さんがなぜ舞台で喋りたくなかったかがよくわかります。
私自身、司会者と役者の二つの顔を持っています。司会は自分の言葉ですが、演じている時は素の自分とは違います。呼吸も変化します。その二つを舞台で使い分けるのが、億劫になることがあるからです。
 もちろん歌手の方の中には、舞台のおしゃべりも楽しませてくださる方もたくさんいらっしゃいます。それもとっても素敵なことだと思います。
 でも、嵐子さんの場合、歌の中に凝縮されるエネルギーは、半端ではなかった。
(できれば、歌う時はそれに専念したい。)
と思っていらしゃったのでしょう。
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そのほか

嵐子さん語録 2

  ピアソラと藤沢嵐子さん

(先日、世界的なタンゴ歌手、藤沢嵐子さんが亡くなりました。
20代の頃から、司会者としてご一緒する機会があり
忘れられない嵐子さんの思い出を綴ります。)

1982年、アストル•ピアソラが来日。
この日本公演の歌手は藤沢嵐子さんでした。

日本公演が決まるより更に10年ほど前、ピアソラに
「もしも日本で公演するとしたら、歌手は誰を連れて行きますか?」
と聞いたとき、返って来た言葉は
「連れて行く必要はない。日本にはRANKOがいるじゃないか。」
そしてそれが実現したのでした。
因みにピアソラは海外公演に行く先々で、「ロコへのバラード」をリクエストされたのですが、歌手がいないから演奏できないと断わり、海外ではなかなかこのヒット曲は聞くことができなかったそうです。
…と、当時のパンフレットに書かれていまさした。

藤沢嵐子さんといえば、日本のタンゴブームの頂点にあった方ですが、それ以上に尊敬を集めていたのはアルゼンチン本国でした。10年のブランクの後、活動を再開した嵐子さんは、17年ぶりにアルゼンチンを訪れました。「ランコ帰る!」と、空港ではテレビカメラや取材陣が待ち構え、記者会見には500人近くの記者がおしかけ、特別番組や劇場での長期出演など大変な騒ぎ。
「ランコに17年の空白はない」
「ランコの神話は崩れなかった」
と新聞の見出しは書きたてました。
このすぐ後にピアソラの日本公演が決まったのです。タンゴ生誕100年に湧いて再びタンゴの人気が高まろうという時でした。

そんなわけで、ピアソラにとっても歌手は藤沢嵐子さん以外には考えられなかったのです。日本公演では、「ロコへのバラード」「チキリン•デ•バチン」「チェ•バンドネオン」といった歌に、ピアソラ、パプロ•シーグレル、スアレス•パス、オスカル•ロペス•ルイス、エクトル•コンソーレという夢のような演奏が実現しました。
司会は評論家の高場将美さん。このとき私は客席で堪能しました。

いま考えれば信じられないことですが、
11月19日(金)中野サンプラザ、
20日(土)神奈川県民ホール
と、たった二ヶ所。しかも両日とも夜のみの一回公演。
音楽界の風雲児も、当時の日本ではクラシック•ファンや一般の人にはまだあまり知られていませんでした。また、古くからのタンゴファンの方々には、ファン•ダリエンソ•スタイル…というか、リズムのはっきりした、いわゆるタンゴらしいタンゴでないと嫌だという方が多く、ピアソラの先鋭的なタンゴには拒否反応を示す方も少なくなかったのです。
そんなわけで、さすがのピアソラの日本公演も、二回が精一杯だったのでしょう。
でも、志賀清さん、京谷弘司さん、池田光夫さんをはじめとするマエストロや日本のタンゴの演奏家たちは、ピアソラの曲をどんどんレパートリーに取り入れていました。ですからタンゴ新参者の私にとっては、ピアソラも古典タンゴも、両方一緒に出会ったため、区別することなく、むしろピアソラの方が馴染みやすかったくらいでした。

タンゴ界に復帰した藤沢嵐子さんは、決して懐かしのメロディーを歌うのではなく、長年歌い続けてきた曲も、今の嵐子さんでなければ歌えないものに変化していました。そして、ピアソラや、マリアーノ•モーレスなど、新しい曲もどんどんレパートリーに加わりました。そんな中でのピアソラとの共演だったのです。

(写真は1982年、来日公演のプログラムです)

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そのほか

嵐子さん語録 1

藤沢嵐子さんの思い出〜訃報を知って〜

 一世を風靡したタンゴの女王、藤沢嵐子さんが8月22日に老衰でなくなられたことを知りました。
 嵐子さんのリサイタルの司会をしたのが、はじめての出逢い。私がまだ20代の頃でした。
そのころは、ご主人の早川真平さんもご健在で、バンドマスターとして活躍されていました。
それまでも、アルゼンチンのミュージシャンの司会をやっていましたが、初めて間近で嵐子さんの歌を聴いて、日本にこんな深みのある歌を歌う方がいらっしゃるのかと、ゾクッとして、司会の仕事も忘れて聴き入ってしまいました。
 それがご縁で、藤沢さんのコンサート、リサイタルには、いつも呼んでいただいて、司会のお手伝いをすることになりました。それから引退されるまで、日本全国、ご一緒にまわったのは、楽しい思い出です。
 司会者というのは、役得と言うか、昔話から、音楽にまつわる思い出、ご夫婦のこと、旅のこと…根掘り葉掘り伺って、話のタネにいたします。そんなわけで、ご自宅に押しかけたり、移動の電車の中でも嵐子さんのお隣に座って、あれこれとお話を聞く事ができました。 
 嵐子さんは、さっぱりとした気性の方で、昔の自分の写真を眺めたり、録音した歌声等を聞くと言うことが嫌い。
「歌ったその瞬間から、もう私の物ではなくなるの。過去には興味がないわ」
「私は、コンサートに向けて ひとりで練習している、その過程が何より好きなの」
などとおっしゃっていて、いかにも嵐子さんらしいなあと思いました。
 一番印象的だったのは、ご主人の早川さんが亡くなられて間もないころ、狸穴にあったマンションにお訪ねした時のことです。部屋の中に、早川さんの思い出の品や写真等が全く飾られていないので、そのことを伺ったら
「早川はね、物や写真の中にはいないのよ。」
そういって大きな目を私に向けて
「早川は、ここに居るの」
と、人差し指で自分の胸をトントンと叩きました。あの時の嵐子さんの目は、今も忘れられません。
今頃は天国で、やっと何十年ぶりかで、夫婦水入らずの時を過ごしていらっしゃることでしょう。
 折に触れて、このノートに、「嵐子さん語録」として思い出を綴っていけたらと思います。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0828/TKY201308280078.html

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そのほか

樋口一葉全集

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5月2日の樋口一葉の誕生日の朗読会に向けて
あれこれ調べ物を始めました。
家の書棚から手に取った全集がとってもきれいなので
よく見たら…

装丁 木村荘八
扉絵 鏑木清方
監修 幸田露伴
責任編集 久保田万太郎


という超豪華メンバー!
久保田万太郎の後書きに
「若き友人戸板康二君の協力を得た」
ですって。

活版印刷の文字っていいなあ〜
字が浮き出して見えるようで
漢字と平仮名の大きさのバランスもいいし
活字が目に飛び込んでくる読みやすさ!
総ルビだしね。

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そのほか

ことばは生き物

以前テレビ番組のキャスターをやっていた時のことです。
仕事場で「相手の言った事を逆手にとる」という原稿を
「ぎゃくてにとる」と読んだら、
「さかてでしょう」となおされました。

刀や鉄棒の持ち方は「さかて」ですが、
この場合は私の読んだ「ぎゃくて」が正解でした。
…「でした」というのは、
これは20年以上も前の事ですから、
当時の辞書ではそうなっていたのです。
ところが あまり間違う方が多いので、
そのうち辞書も折れて(?)、
現在はどちらでもいい事になっています。

言葉はどんどん変化するのでむずかしいですね。

芝居や朗読をしていると、
言葉についてはかなり敏感になりますが
それでも まだまだ知らない事だらけで
冷や汗をかくこと しばしば。

古い時代の作品を読んだり演じたりするときには
アクセントや敬語、言い方なども
時代によって変化してきているので、気を遣います。

ところで、現在のアクセント辞典はあるけど
古い時代のアクセントを書いた辞書が欲しい!
でも、そんなの読む人いないから
発売される事はないでしょうね。
古い時代の映画から
ときどき気づくと ノートに書き込んで
自分なりの 昔のアクセント表をつくっていますが
なかなか はかどりません。

こうなると、趣味ですね。一種の。

そのほか

父の残したエッセイ

父の遺稿集「はとからすやまとりのこみち」のなかに
こんなエッセイがあります

3.11 の大津波や、原発事故のあと
父の言葉が こころにしみます。

    原爆の日に


北イエメンを小旅行した。
かつては「緑のアラビヤ」とか「幸福のアラビヤ」と呼ばれ
雨と緑に恵まれた農業国として栄えたが、
アラビヤ半島にありながら石油を産出しないので
現在国民の二割近くが近隣の産油国に出稼ぎに行く。
国土の大半は二千メートル以上の高地で切れこんだ涸れ谷を
段々畑として残された家族が耕作している。
此の穀物をねらって長い歴史の中に
エチオピア、トルコ、ペルシャ、サウジ・アラビヤの国々が進入して
村人を殺害した。
そのため殆どの村落は崖の上に
鳥の巣の如く城塞化し石の壁でかこまれた。
二百年前に進入したトルコ軍は此の村落でてこずり
北イエメンを「トルコ人の墓場」と呼ぶ程の戦死者を出した。
今も人々は此の石の壁の中に住む。
貯水池までの水汲みは女性にとり過激な労働である。
併し平地に村作りしようとはしない。
村人と語ると日々のつらい労働も
敵に殺されるよりはという言葉を聞く。

其の他の理由もあろうが
二百年前の戦爭を語り継いで今なお生活を変えない国と、
三十何年前の原爆を国民の大半が忘れかけている国の違いを
原爆の日に考えた。

そのほか

パンツのハンカチ!!

pantu


お友達のイラストレーター、
村田善子ちゃん

ハンカチの展示会に行って、
パンツのハンカチを購入!!

ちなみにこのパンツのモデルは私の友人Fさん。
彼女が穿いていたのは白ではなくて例の「巣鴨の赤パン」です。
Fさんの名誉のために…
Fさんはパリにも暮らしていたオシャレな女性です。

「あれ、内臓を暖めていいのよぉ〜」と、
彼女に赤パンを勧めたのは私の母で…。
ちなみに母も下着は舶来のオシャレなのしか着けなかったのに、
赤パンに出会ってから、宗旨替えしたそうで…
10枚も買い込んで人に勧めていました。

(あっ!わたしは赤パンははいておりませんっ!)
 
で、赤パンに衝撃を受けた善子ちゃんが、
こんなハンカチをつくっちゃったという訳でぇ…。
彼女のイラストはいつも ぶっ飛んでおりますが、
これも なかなか衝撃的なハンカチでございますぅ。

そのほか

アニエスb のウィンドウ・ディスプレイ

アニエス1


青山の裏通り、アニエスb の ウィンドウに、
何やら蛇のような模様が…
と思って 近づいてみたら
なんと、古いレコードが貼り合わせてありました。


アニエス2

そのほか

「足の向くまま」

ブログのタイトルを「足の向くまま」にした理由

亡き父の句に

恵方とは是, わが鼻の向きし方

というのがある。
心の赴くままに、人生を生きたい
思想を拘束されることのない
自由人でありたい という
父の思いが こめられている。

その思いを受けついで
それをタイトルにしようと…

ありゃ「鼻の向くまま」ってのも
なんだかねえ…
「風の吹くまま」だと
あまりに 周囲に流されそうで…

そこで「足の向くまま」にした。

「あっ、面白そうだ」
「なんとなく、心惹かれる」
そう!
自分の勘とイマジネーションを信じて

そんな思いを込めて。


そのほか

蓮の葉で酒盛り

    蓮の酒宴って、何かで読んだことがあって…

不忍池の蓮3 

上野の不忍池の蓮が、今満開です。
むかし、ここで酒宴をやったことを 思い出しました。
とっておきの 日本酒を手に入れて

友人と4人で 夜中に忍び込み
  …いや、べつに立ち入り禁止じゃなかったけど
  なんとなく 忍び込む って気分で…

蓮の葉を ちょいと失敬して
  よいこの みなさんは やってはいけません
茎を20㎝くらいにします。
茎は中空で ストローみたいになっていますから、
葉の真ん中、茎の入り口にプスリと小さな穴をあけます。

茎の先を口にくわえ
葉に日本酒を注ぐと
茎を伝って タラタラと…甘露の汁が…

人気のない 真っ暗な中の酒宴。

ついでに、蓮の花びらにも 酒を注いで
…これが ホントの酔狂??


            不忍池の蓮2
不忍池の蓮1




そのほか

15年もの?線香花火

友人が集まったので
我が家の秘蔵の日本酒
四季桜の吟醸酒をあけました。

多分10年くらい(ラベルがはがれて??)たってるけど
日本酒専用冷蔵庫に入っていたせいか
老香もなく、うっすらと色づいたくらいで
品の良い味は まさに飲み頃。

それじゃあついでに…と
こちらは多分15年くらい前に買ったまま
しまい忘れていた
線香花火に火をつけることに…。

この花火、木の箱に入ってて
しかも、和紙なんぞに包まれて
ちょっと 凝り過ぎか…
開けると 普通の線香花火の2分の1くらいの細さ
物々しく 炭なんかが隅っこにあって
10本しか入っていない!
しかも、当時2000円ぐらい?したような!!

あんまり高くて 腰を抜かし
何かの イベント用にと とっておいて、
すっかり忘れておりました。

ちゃんと、火はつきましたよ。
普通の…というか、
小さいせいか、ちょっと 控えめな感じ…かな。

熟成したお酒と
熟成した 線香花火

おとなの 夜でした。



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プロフィール

はんがん

Author:はんがん
河崎早春(かわさき さはる)
俳優、朗読家。NPO日本朗読文化協会講師。

舞台の案内、これまでの舞台、仕事歴は
公式HP 「ことばの国」

朗読、語りの様子はYouTube
「ちりぢごく」「瘤取り」ほか


プライベートな 趣味の世界は Facebook

なお、武者小路実篤記念館のHPで
詩の朗読の映像も見られます。
→ 「詩の世界」

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